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(多剤耐性菌・2)政治と行政の無能こそ、問題にすべきこと
2010-09-10-Fri  CATEGORY: 医療崩壊
昨日の続きです・・・今マスコミは狂ったように現場の医療者を叩いていますが、そんなものはまやかしにすぎません。政治は無策だし、行政は責任転嫁ばかり考えていて、だれも責任ある態度をとりません。そんな中、現場だけが犠牲を強いられる・・・この国の医療における、最大の問題の一つと考えています。

今回は、小松秀樹先生の文章を引用します。

小松先生の文章より

「国民を元気にする政治」とは?

小松秀樹

2010年9月9日 MRIC by 医療ガバナンス学会

またぞろ、行政-マスメディア連合による犯人探しとバッシングが始まった

9月6日付のasahi.comによると、帝京大学病院の院内感染問題で、長妻厚生労働相は「重大な院内感染が発生したらルールにのっとって報告することが必要。きちんと機能しているのかどうか検証が必要だ」と話したという。9月6日の午後には立ち入り調査が行われた。警察による業務上過失致死傷を視野に入れた事情聴取も始まった

報告しなかったことが被害を拡大させたとする報道もあるが、報告することで被害が防げるわけではない。報告は、法律ではなく通知により求められているもので、厚労省からのお願いレベルのものだという
加罰的扱いをするには、立法が必要である。そうでなければ、行政の暴走が防げず、三権分立の意味がない


現実問題として、報告しても対策の財政的支援が得られるわけではなく、状況によっては不利益を伴う処分さえ下されかねない。厚労省は、無理を押し付けるということにおいて、医療現場から悪代官のような存在とみなされている
そもそも、報告をためらわせるような厚労省の姿勢に問題がある。厚労省の今後の対応によっては、さらに情報が集まりにくくなりかねない


報道によると、帝京大学病院の感染対策に問題があったとされる。しかし、安全対策には人的・物的資源が必要である。
感染防止対策に不十分ながらも、診療報酬がついたのは、問題発生以後の、2010年4月からである。出来高払いでは、一人の患者が一回入院すると 1000円が支払われる(DPCでもほぼ同額になる)。亀田総合病院で年間2000万円程度になる。しかし、感染対策室には、専従職員が3名、検査室との兼任の感染症の専門医が1名、他に感染症科の医師が5名常時活動している。大病院でも、4月以前に十分な対応できていたところは少ない。
多くの病院で、対応の努力を始めた段階にあると考えるべきである。実際、診療報酬はぎりぎりに抑制され、多くの病院が赤字に苦しんでいる。報酬が発生しないところに費用をかける余裕がない。これに加えて、感染対策を専門とする医師、看護師は少なく、すべての病院が厚労省の求める人材を確保できる状況にはない


検査体制を整えている病院で、多剤耐性菌による院内感染を経験していない病院はない。常に対応をし続けているといってよい。
多くは弱毒性で、健常人には病原性がないが、化学療法を受けている進行がん患者や、大手術を受けた患者など、免疫力が低下している患者ではときに致命的になる。
世界の専門家から様々な認識や対応が発表されている。人的、財政的制限があるので、あらゆる対応がとれるわけではない。院内感染は、医療側の対応と新たな問題の発生で、時々刻々、その様相を変えている。
院内感染の撲滅が当面不可能であること、人間の生命が有限であること、医療が不完全であることを前提に、冷静に実情を認識すべきである。不可能なことを規範化すると、士気の低下を招き、医療現場が荒廃する


問題になった多剤耐性アシネトバクター・バウマニは乾燥に強く、栄養要求性が低いという。このため、近年、院内感染の主役だったMRSAと異なり、環境に広く分布し、死滅しにくい。手洗い中心だったこれまでの対応で制御しきれないこともあろう。

厚労省は、規範との整合性ではなく、社会にもたらす結果を基準に、すなわち、今後の耐性菌による被害を最小限にするのに有用かどうかを基準に、対応すべきである。
具体的には、現場の心理的障壁を小さくして情報を集めやすくすること、集まった情報をすべて開示すること、現場の対策を支援することである。
厚労省が、さまざまな背景を持つ現場に、罰則による威嚇を伴った一律の指令を出すことは、院内感染対策には有害無益である
。対応するのは厚労省ではなく、多様な背景を持つ現場である。厚労省はその援助しかできない


行政は法による統治機構であり、原理的に医療を上手に扱えない。物事がうまくいかないとき、自ら学習せずに、規範や制裁を振りかざして、相手を変えようとする。原理主義的で適応性に乏しい。これに対し、医学・医療では、物事がうまくいかないとき、自ら学習し、知識・技術を進歩させる。実情の認識を基本とするので、無理な規範を振り回すことがなく、適応性に富む。

CDC(アメリカ疾病予防管理センター)では、刻々と変化する医療の状況に科学で対応するために、行政官ではなく、医師が主導権をもっている。
逆に、日本の厚労省は、自らの責任回避のために、現場を細かく縛る無理な規範を設定して常に現場を違反状態におく。問題が浮上してくると、現場に責任を押し付ける。新型インフルエンザ騒動では、水際作戦に代表されるように、無理な規範を掲げて、実質的に強制力を伴う事務連絡を連発し、無残な失敗を重ねた。

報道機関から漏れ聞くところでは、厚労省が加罰的対応をしているのは、帝京大学での沖永家による支配体制が気に入らないからだという。ガバナンスに問題があるのなら、院内感染と切り離して、ガバナンスに問題があることを真正面からとりあげるべきではないか。別件逮捕のようなことをすると、院内感染対策が歪む

古い体験を話す。35年前、東京大学泌尿器科学教室では細菌培養を中央検査室ではなく、教室の研究室で実施していた。そのデータは病院全体の感染管理に還元されていたわけではない。大学は各科の独立性が強く、病院全体のガバナンスはほとんどなかった。

病院のガバナンスは、比較的最近、輸入された考え方である。しかも、望ましい医療機関のガバナンス像は常に変化している。例えば、国際的な病院評価機関であるJCIはガバナンスも評価しているが、数年ごとに基準を変更している。医療機関のガバナンスの実態も常に変化している。しかも実際の医療機関は極めて多様である。望ましい定常状態を想定してそれを押し付けること自体無理がある

全国の大学病院のガバナンスの実態はどうなのか。その中で、とくに帝京大学が劣っていたのか。多少なりとも問題のない病院はあり得ない。ガバナンスのありようを外部から強権で変えること自体、ガバナンスを傷つける。厚労省からの天下り役人が帝京大学を支配するようなことがあれば、かえって弊害が出かねない。
実際、厚労省の天下り役人が支配してきた骨髄移植財団では、天下り役人がセクハラ、パワハラを繰り返し、大量の退職者が出た。財団は、セクハラ、パワハラに抗議した部長を解雇したが、不当解雇だとして訴えられ、敗訴した


良いガバナンスとは、制御の利いた合理的な自律である。内部に真摯な動きがないと、いくら外部から叩いても、改革は成功しない。具体名はあげないが、複数の大学の例が実証しているように思える。

そもそも、帝京大学のガバナンスが悪かったから耐性菌の問題が明らかになったのか、改善されたから明らかになったのか。漏れ聞くところでは、事件後4月に新院長に就任した森田茂穂氏の英断で、外部調査委員会が開かれ、すべてが開示された。望ましい自律の動きが始まった可能性がある。

菅直人総理大臣は国民を元気にする政治を唱えている。私は、菅総理の考え方に大賛成である。
フランスの政治哲学者であるトクビルは、政治的中央集権を評価するが、行政的中央集権を嫌う。『アメリカの民主政治』の中で、菅総理と似た考えを提示している。
トクビルの意見を要約すると、以下のようになる。

「国家が、国民生活の些細な部分まで支配すると、有能で活発な人間が、人々や社会に影響を与えられなくなる。国家は、人々を国家に頼らせ、自立できないようにしてしまう。国民は、臆病でただ勤勉なだけの動物たちの集まりにすぎなくなり、政府がそれを羊飼いとして管理するようになる。国民は、あらゆることを国家に頼るようになって、元気がなくなる。国家が衰えると、自力で生きられない元気のない国民は滅びる。」

行政権力は、日々更新されている医学的合理性と大量の情報を活用するための行動原理と能力を有していない。従来、行政権力が無理な規範で医療を統制することを、自民党が支えてきた。
日本医師会は行政権力の下請けになっていた。これに、日本の医師の多くが反発し、2009年の総選挙で、民主党に投票した。選挙前の何年かの医療をめぐる議論が、政治の大きな流れを変える一因になった。
医師たちは、政務三役に、行政権力の制御を期待した。長妻大臣の対応は、旧来の自民党と同じであり、日本人の元気を奪うものである。失望を禁じ得ない

(引用ここまで)

医系技官は医師免許こそ持っていますが、十分な実務経験を経ていないため実情を理解している人はそれほど多くないと推測されます。彼らは官吏と医師の意思の疎通をはかるため必要不可欠な存在のはずですが、実務能力がないため現場を無視して無茶苦茶な要求をしばしば振りかざします。今回は多剤耐性菌に対する「完全な備え」という、おおよそ実現不可能な要求を行い、現場を混乱させる大きな原因となっています。病院の財政はどこも厳しいのに、そんな無法な要求をしてどうするつもりなのか。
ついでに言えば、病院から財政的余裕を奪ったのは低医療費政策ですが、彼ら医系技官は何らその流れを押しとどめようとしなかった。責任を厳密に追究していけば、その結末は厚生労働省に所属するすべての人間の責任ということになるのです。今回彼らは通達「らしきもの」を言い訳よろしく出しておき、自己免責の道具としていますが、病院の余力を奪い今回のような非常事態に対応できなくしたことに対する責任からは、決して逃れられない。産科の問題、救急の問題も同じ構図・・・医療費をこの国の官庁がケチっている状況で、まとも以上の対策など、実現不可能です。

ならば、金を出し渋っている国の責任はどうなるのか。そういえば去年の今頃は政権交代とやらの熱気で、やたらムンムンしていましたねぇ・・・現与党は医療費についても「先進国並みを実現する」とか、言っていたのですが。現実には、こうした約束は反故にされ、まるで低医療費政策は改まる気配がない。かと思えば、今回の文章のごとく、何も知らないおバカな大臣が官吏の尻馬に乗って現場の医師を攻撃する始末。小松先生の慨嘆が、よく理解できるとしたものです。
政治の責任は、何といっても実際の政策で社会を改善することにあります。医療費を公約通り増やし、医療機関の経済的余力を十分保障し、いざという時に十分な対策がとれるよう現場を支援することこそ、彼らの本分だったはずですが。今彼らが熱中しているのは、内部の主導権争い・・・しかも両陣営の公約に、医療の「い」の字も入ってこないのはどうしたことなのか。現与党が居座り続ける限り、医療の改善などとても望めたものではないと見切りをつけるに十分な状況です。

政治も行政も自分勝手で、かつ責任の転嫁しか頭にない状態。責任は(本来あるはずのない)現場の医療者に押し付けられ、場合によっては手錠で脅迫されかねない事態に陥っています。こうした事態が事あるごとに繰り返されるのであれば、まず現場の医療者が「突然世の中が嫌になり」立ち去ってゲームオーバー。その次に患者が誰も助けてもらえなくなりバッドエンド。そうならないために、有権者はこの問題に対してどう考えるべきか・・・しっかり悔いのない意見を形成する必要があります。

必要なのは口先だけの介入ではありません。具体的対策を可能とする財政の裏付け、それだけです。まあこの国の国民は、そのためにどれだけのお金を「出してもいいと考える」のか、きわめて疑問ではありますが。だとすれば、元凶はお金を出し惜しむ国民にこそあるというわけで。なんとも嫌な結論ではあります。
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